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パニック障害

私はパニック障害である。日本ではだいぶ状況は改善されたものの、やはり自分が心の病(正確に言うとパニック障害は脳の病気だが。)であることを公言しづらい状態である。現に私は家族の他はたった一人の友人にしかパニック障害であることを打ち明けていない。有名人のパニック障害が公表されるとともに、この病気についても知られるようになってきてはいるかと思うが、まだ認知度は低いと思う。ただ、パニック障害で苦しんでいる人も多くいるのも事実だろう。そこで、私の経験をここでお話しすることにした。

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パニック障害になった直接のきっかけ
私は26歳の時に心療内科パニック障害であると診断された。以降10年以上、この病気とともに生きている。
パニック障害になった直接のきっかけは会社のプロジェクトリーダーによる「パワハラ」が原因だった。そのリーダーはプロジェクトが遅延した責任を新人だった私に転嫁し、小さなプロジェクトルームで、毎日朝から晩まで私を怒鳴りつけた。毎日、毎日プロジェクトに気違いおじさんの怒号が響き渡る。私とリーダーの他、数人の人がその場にいたと思うが、誰も助けてくれない。誰も他の人に報告してくれない。私はプロジェクトが遅延したのは自分のせいではないので、自分が何月何日にどのタスクを行っていたか、毎日毎日、同じ説明をリーダーに淡々とし続けた。それが1か月ほど続いた。私は人に弱みを見せたくないタイプだったので、誰にも助けを求めず、ただひたすら自分の力だけでその場を生き抜こうとしていた。毎日同じ説明をしたのが功を奏したのか、はたまたリーダーの腹の虫が突如収まったのか、ある時突然リーダーの私への罵倒は収まった。次の標的は私のメンターになった。私は心底ほっとした。悪いのはメンターではなく、リーダーそのものなのだが、怒りの矛先が私以外の人に向いたのでほっとしたのである。
人というのは緊張が途切れた瞬間が一番危険である。私は、一番苦しい時期を抜けたにもかかわらず、抜けたときから、体に不調を感じるようになった。夜の7時になると心臓がバクバクするのである。動悸。同期の子と夕飯を食べに行く約束をしても夜の7時以降まで待っていられなかった。
ある時、高校時代の友達と、会社帰りに銀座で夕飯を食べることになった。夕飯を食べて、帰宅する間際、みんなでスタバによってカフェラテを飲んだ。このカフェラテのカフェインが誘引となったようで、私は息苦しくなってその場に座り込んだ。帰りが同じ方面の友人と電車に乗ったはよいが、電車の中でも調子はよくならず、息を吸っても吸っても吸えない状態になった。友人に事情を話し、途中の駅で降りた。私は駅のホームに倒れこむようにしゃがみ込み、私はこのまま死ぬかもしれないという恐怖に陥った。「お願いだから救急車呼んで。」友人に頼んで救急車を呼んでもらった。
救急車の中で、救急隊員の方が血中の酸素濃度を測ってくれ、「酸素は十二分にとれているので、ゆっくり呼吸してください。」と言われた。病院につく頃には症状は治まっていた。病院の先生の診察によると、俗にいう過呼吸だとのこと。「治療方法もないのでそのままお帰り下さい。」と言われた。呆然と診察室を出た。この時はまだ自分がパニック障害だということはわからなかった。

パニック障害と診断されるまで
過呼吸になって救急車で運ばれた後も、いわゆる「予期不安」に悩まされた。またいつあのような苦しい状況になるかわからない。特に会社帰りの疲れているときや、花火大会で狭いところに大勢の人が集まっているところは恐怖で仕方なかった。「ここから出られなくなったらどうしよう」という不安、恐怖でいてもたってもいられなくなる。(今でも、人身事故などで電車に閉じ込められたとき、このまま1時間も2時間も閉じ込められたらどうしよう、とパニックになる。そんな時は常備している頓服薬をすぐ服用する。)また、人の言ったことに傷ついてキレることが多かった。家族が何気なく言った言葉に憤慨し、キレて泣き叫ぶ私を見て、母が、「心療内科に行って来たら?ちょっとおかしいよ。」と言ってくれた。その一言で心療内科を受診することにした。実はその少し前に姉がやはり心療内科パニック障害と診断された。なので、おそらく自分もパニック障害だろうという察しはついていたし、姉が通っていた心療内科だったので、特に抵抗はなかった。
心療内科を受診し、問診票に回答した結果、典型的なパニック障害であると診断された。抗不安剤の薬を処方され、「薬に頼っていいから、とにかく家に閉じこもらないこと、外に積極的に出ることが治療によい」ことを教えてもらった。初めて抗不安剤の薬を飲んだ時、すぐに効果が表れ、今まで不安だったりイライラしていた気持ちがどこかに行き、ものすごく心が楽になったのを今でも覚えている。

パニック障害とともに生きる
それから私は今に至るまで、毎日抗不安剤を服用している。抗不安剤を飲みながら妊娠も出産もしたし、盲腸の手術までした。離婚もした。もう10年以上服用しているので、そろそろやめたいなぁ、と思うこともある。お医者さんに相談すると、「いまの環境を変えない限り、パニック障害は直らないでしょうね。」とのこと。今の環境、すなわち私は仕事を辞めるまでおそらくこの病気、薬と付き合っていくのだろう。もしくは一生かもしれない。でも、それはそれでいいか。
また、パニック障害には有酸素運動がよいといわれた。たまたま私のかかりつけのクリニックがチャコットの隣にあったこともあり、私は初めてチャコットというダンス用品専門店に入り、バレエというダンスにのめりこんでゆくのである。「転んでもただでは起きない。」というのは私の座右の銘で、パニック障害になったからこそ私はクラシックバレエの扉を開けることができた。クラシックバレエはその時から今に至るまで、ずっと続けている。

コロナ禍はパニック障害の人には生きやすい
パニック障害、不安障害の人は人の目があるところではものすごくストレスを感じる。会社で仕事をするというコロナ前の環境自体が私にとってものすごくストレスだった。通勤電車は言わずもがな。ところが、コロナ禍になり、在宅勤務がデフォルトとなった今、今まで怖くて挑戦できなかった新しい仕事にも果敢にチャンレンジしている。在宅勤務のほうが仕事の体力が温存されるのだ。コロナ禍による強制的在宅勤務は私にとって棚から牡丹餅だった。